常識って何でしょう?
私たちが常識だと思って疑わないことでも、他の人たちから常識ではないこともあるのです。そもそも常識とは、「目の前のことしか知らない」人が持つ偏見に過ぎません。
日本文化を外から見てみると自分の常識がよくわかります。
固定観念で人を縛る
日本では夫婦別姓は家族の絆を壊すという理由で反対する人が多くいます。しかし中国や韓国では昔から夫婦別姓はよくあることで、家族の絆は決して弱いものではありません。
また子育てのやり方にしても、日本では「子どもを育てるのは親の責任だ」というのが常識です。
しかしポリネシアでは子どもを地域のみんなで育てるため、働く母親も困らないし、自分の子どもにだけ過剰な期待が集中して負担を強いることもありません。
人の家族関係や子どもの育て方に余計な口を出す人は、狭い世界だけしか知らず、それがこの世界の真理だと思い込んでいる頭ガチガチの人に多いですね。
そのような人に「なぜ?」と問いかけてみれば、誰もが納得できる明確な答えがないことがわかるはずです。
「間違い」ではなく「違う」だけ
また雨についての捉え方も文化によって違います。
日本では雨が降ったら洗濯物を取り込むのが当たり前ですが、ニュージーランドでは「晴れたらまた乾くから放っておく」のが当たり前です。
それに、ニュージーランドの人たちは雨が降ってもあまり傘をさしません。雨が降ったら傘をさすものだ、というのが常識の日本人とは考え方が違うのです。
雨は汚いとか、濡れるのは嫌だ、という感覚自体が絶対的なものではなく、文化によって何がきれいか汚いか、何が良くて何が悪いかの基準自体が違うのです。
正しい、間違っている、という狭い枠の話ではなく、ただ「違う」ということです。
自分が世界の標準ではない
刺身や寿司を見るとおいしそうだと感じるのも、世界中どこでも共通の感覚ではありません。海苔などの海藻を食べると聞いただけで寒気がする、という人たちだって世界にはいます。
牛の血を固めたゼリーや犬を食べることに対して、日本人からしたらおかしなことに見えるかもしれません。
それでも、その地域の人たちにとってはそれが「当たり前」であって、何もおかしいことなんてないわけです。
狭い世界しか知らない人、自分が世界の標準だと勝手に思い込んでいる人からはおかしく見えるだけであって、そもそも価値観に正解はない以上、価値観がおかしいのではなく「違う」だけなのです。
「◯◯はおかしい」という人に「なぜ?」と問いかけてみれば、誰もが納得できる明確な答えがないことがわかるはずです。
「らしさ」に従うと「らしさ」が消える
男らしさ、女らしさといった価値観も時代や場所によって変わります。文化によって変わるだけでなく、同じ日本の中でも時代によって変わります。
「男は外で働き、女は家を守るべきだ」という価値観が、唯一絶対の価値観であった時代だってあるのです。
そんな中で他の人が勝手に信じている男や女「らしさ」に従わなければ、おかしな目で見られることもあるでしょう。
「らしさ」に正解なんてないのに、あなたが勝手に信じているだけでしょ、と言ったところで、狭い世界しか知らず、それがこの世界の真理だと思い込んでいる人には通じません。
かといって他人の求める「らしさ」に合わせてしまったら、それこそ本当の自分「らしさ」が失われてしまいます。
ほんとうに自分らしく生きるためには、他人が求める「らしさ」など無視してしまえばいいのです。
価値観は時代や場所によって変わります。いつでもどこでも常に正しい「永遠普遍の真理」などありません。
時間や空間への視野を広げてみることで、自分が狭い常識にとらわれていたことに気づくでしょう。
自分の価値観を相対的に見てみることで、固定観念や世間の狭い常識にとらわれず、もっと自由に気楽に生きられますね。